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LIGHT COMPOSE

この本について。

 一体何故かはわからないが、日本というアジアにある不思議な島国においては、このグローバルな時代に在ってなお、また外来語が通常の会話の中に大量に、かつ当たり前のように飛び交う現実が在ってなお、一般に、〈言葉〉がきわめてプリミティヴに用いられている。
 プリミティヴという意味は、つまり、言語あるいは個々の言葉というものがそもそもなんであるかという概念の把握や規定がなされないまま、あるいは、そういうものを検証する文化的、日常的、構造的なシステムがないまま、さらにはまた言葉というものが、自律的にせよ他律的にせよ、意識的にせよ無意識的にせよ、そもそもそういう一種の文化的洗礼を受けるというプロセスを経たうえで初めて自立したものとして成立する一つの〈表現メディア〉なのだということに無自覚なままに、言葉が無前提に用いられているということに他ならない。
 もちろん言葉は、通常そういうことをいちいち考えて話されるのではないし、またそのようにしていたのでは、例えば一般的な会話は成り立たない。しかし、私がここで問題にしたいのは、そういう日常的な次元における言葉の問題ではなく、実は表現のレベルにおける言葉について、つまり、マスメディアを含む我が国の文化的なレベルを支える言葉の発信者の意識の未熟さのことであり、そしてそこにおける、メディアとインフォメーションと表現との区別すら定かでないような曖昧模糊とした現状のことである、そこには、個々の言葉が、無自覚なままに発せられながら、にもかかわらず、一旦発せられあるいは活字となってしまった後にはそれが、あたかもお告げか何かのように無前提に受け入れられてしまう不思議な現実がある。

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 海藤春樹の〈言葉〉に関して語ろうという時に、どうしてこんな話をするのかといえば、海藤春樹の〈言葉〉というのは根本的に受け取る側に、こうした現実に対する認識や、表現というものに対する本質的な理解のグラウンドが無ければ、正確に伝わり得ない性質とレベルをもったものだということを、まず念頭に置いてもらいたかったからである。そしてなにより、そう思って耳を傾ける時、海藤の言葉の向こうに彼の創造性の確かさがハッキリと浮かび上がって見えるということを、わかってもらいたいからである。
 例えば海藤が、「コンセプトとか、そういうのよくいいますけれど、あまり好きじゃないんです。『本当はうそでしょう』って」と言う時、海藤が否定しているのは、決して〈コンセプト〉という言葉それ自体ではなく、その言葉が無自覚に、無前提に使われ、そしてそれがまかり通っている貧しくも寂しい日本のクリエイティヴシーン(と呼びうるようなものが仮にあるとして)の実情に他ならない。そこでは、コンセプトという言葉を大切な何かとして産み育ててきた歴史的文化的グラウンドと、そこにおいてその言葉がもつ意味の強さとは無縁なかたちで、あるいは、たとえそんなややこしいことを具体的には知らなくとも、すぐれて創造的な活動には、その言葉が指し示す総合的有機的意思のようなものが、なんらかのかたちで存在するという認識を、経験的、肉体的、かつ致命的に欠いたまま、単なる思い付きや、せいぜい合い言葉といった言葉と同じ程度のレベルと意味あいで、その言葉が混同、乱用、消費されてしまう。ならば、そんな言葉は始めから使わないほうが良いのだ。だって、言っていることとやっていること、そして実際出来上がったことの間に何の実質的な脈絡も見えないとしたら、それはやはり「ウソでしょう」と言う他ないのだから。

「海藤の言葉」とは。

 海藤の〈言葉〉には、煎じ詰めればそのような発信地点に到達する言葉が、きわめて多い。そして当然のことだが、海藤はそんなことを、いちいち説明したり、余計な但し書きや能書きを並べ立てたりはしない。海藤はなにも、芸術家養成幼稚園のセンセイでもなければ、業界のゴイケンバンでもなく、ライティング・デザインを基本的な武器とする、類まれな表現者であり、それよりもなによりも、彼にはそんなヒマがない。
 したがって、海藤の〈言葉〉を聴くにあたって大切なことは、それが軽い口調で語られようと、重い口調で語られようと、あるいは、優しく語られようと攻撃的に語られようと、それがどこで何に向けて何故発せられたかという事であり、そこに浮かび上がる現実とそこにおける〈海藤〉の位置である。当たり前の事だが、レコードは、再生装置が無ければただの薄っぺらな板にすぎない。本は、文字とそれによって構成された世界を理解するグラウンドがなければただの寄せ集められた紙にすぎない。
 〈私〉は〈海藤春樹の言葉〉が非常に好きだが、それは何より、その言葉の位相の高さと確かさが好きだという意味に他ならない。
 ところで、海藤の〈言葉〉を良く見てみると、そこに幾つかの、基本的な傾向が在ることがわかる。それは一つには、すでに述べてきたような、表現やクリエーションに関する概念的かつ本質的な言葉であり、そこでは多くの場合、海藤の、そういった事柄に対する把握の確かさ(実感の確かさと言っても良い)と、それとは逆の一般的なグラウンドの脆弱さが浮き彫りになって面白い。例えば、「表現って結果だと思うんですよ、そこにあるものなんですよ。みんなそう思っていなくって、するものだと思っている。しかもしなきゃいけないものだと思っているから、あれはデザイナーとしては見苦しいことだと思うね」と海藤が言う時、そこから、近代の、いわゆるオリジナル神話がその暗部に宿してしまった病理のようなものと、それを無前提に受け入れてしまったまま回転を続ける常識的蒙昧さが、あっけらかんと透けて観える。

ライティングデザインの仕事について。

 次に海藤の〈言葉〉と対応しているもう一つの大きなグラウンドは、もちろん彼の仕事であるライティング・デザインの実際の仕事に関してである。ただこうしたことに関して語る時の海藤の言葉は、通常いわゆるプロが自らの仕事を語る場合とは、かなりニュアンスが異なっていて、とりわけ特徴的なのは、多くの場合、個々の作業に関しては非常に具体的でありながら、それらを全体としては、かなりフレキシブルな関係の中に配置していることである。これは一見何気なく見えるけれども、しかし一般に多くのデザイナーが、全体のデザインやプランやプログラムに非常に執着を見せながら、具体的な事に関して意外と無頓着であったりする現実と、実は好対照を見せている。例えば海藤は言う。「建物の周りには、ちっちゃい裸電球をいっぱいぶらさげたんです。この電球、なかなか凝ってまして、一個ずつ色を染めたんです。既成のものは、なんというか、パキッとしてるんですね。製品というのはみんなそうだと思うんですけれども、よくできすぎているんですよ。これをぶら下げるときも、業者の人はすごくきれいにつけちゃうんですよ。だから練って行く作業というよりも、やらせない作業が大事だね。」
つまり、こだわりかたの、重心の置き方やバランスが違うのである。海藤は、光や時間や物や空間や環境をデザインするということが、本当はどういうことなのかということを、どうやら熟知している。
 一見気まぐれに見える海藤の言葉が漂うもう一つのグラウンドは、先に述べたような具体的な作業とその有り様が示す、彼の仕事に対する〈姿勢〉のようなものと、それを支える思想的なグラウンドである。こうしたことは彼自身が言うように、本来、彼が成した具体的な〈仕事〉を通じて語るべきであり、そしてそのほうが面白く意味の広がりも大きいが、ただ彼が「何を成したか」を語るには、彼が成した仕事は実にバラエティに富んでおり、しかもその都度内容が異なるので、ここでは個別に語る時間がない(余談だが、私はアーティストの本質的力量とレベルは基本的に、個々の仕事の中で彼が何をしたかということよりも、むしろ何を敢えてしなかったかということの中に自ずと表れると考えている)。ただそれでも、例えば〈水〉が、四角い容器に入れれば四角くなり、丸い容器に入れれば丸くなり、下に零せば滲みあるいは流れるというように、その時々で形を変えたにしても、水としての特質を決して失ってはいないように、海藤の〈言葉〉の向こうには、この本に表れたものだけをとってみても、どうやら彼が生きる、あるいは生きようとする〈世界〉の固有の磁場のようなものが、そしてその密度と比重が自ずと伝わってくる。

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 最後に、海藤の〈言葉〉がしばしば着地するもう一つの大きなグラウンドは、〈仕事〉や〈遊び〉といった〈人間〉の基本的かつ本質的活動、すなわち〈生きる〉ということに関する卓越した意識のグラウンドである。海藤は、仕事と遊びの間に線を引くような愚鈍な現代病とは全く無縁な存在だが、しかし同時に、それによって食いぶちを得る一人のデザイナーとして、あらゆることを仕事として成立させることに、そしてそのことでそのグラウンドに可能性と社会的現実性を与えていくことに、当たり前のように敢えて挑む勇気を常に見せている。どうやら、海藤は、コマーシャルということとアートということが、しばしば対立的に捉えられがちな我が国の小児的な文化生産レベルで比べれば、また表現におけるプロということが、金太郎飴の作り方の上手さといった問題と同じ次元で語られてしまう絶望的な状況の中にあっては、二回りほど先を行った、あるいはそれとは全く無縁の、確かな世界を生きている。

 一体何故かはわからないが、日本というアジアにある不思議な島国においては、このグローバルな時代に在ってなお、また近代的なテクノロジーが日常的に蔓延してなお、さらには、そうした人工的テクノロジー、とりわけエレクトロニクスの世界においては世界をリードする存在であるなどと言われて久しいという現実が在ってなお〈光〉は、きわめてプリミティヴに用いられている。「光って不幸でしょ。だってこれまで誰にもまともにかまってもらえないままここまできちゃったでしょう」と言う海藤春樹の〈言葉〉がもつ意味は、深く、そして重い。どうかその向こうに居る、〈海藤春樹〉の確かさを楽しんでもらいたい。 

目次

Part 1 INTERACTIVE SPIME
演劇的時空

ここでは、海藤春樹がこれまでにかかわってきた仕事のなかから、演劇、ミュージカル、ダンス、コンサート、パフォーマンス、イベント等、主に舞台芸術の分野に該当するものを紹介するとともに、それらに対する海藤春樹の、基本的な姿勢や、現実的な問題点、そこで何をどのように実現しようとしたか、そしてさらに、そこからどんなことが展望できるか等が、彼自身の言葉によって、語られます。

Part 2 CREATIVE PROCESS
創造の手順

ここでは、次の四つの仕事において、海藤春樹が具体的に、どのようなプロセスによって、光をデザインしたかを紹介します。
○転位・21「ボブと学校」○林英哲コンサート○D−シルヴィアン・R-フリップ コンサート○T市再開発事業景観計画

Part 3 URBAN SPIME
都市的時空

ここでは、海藤春樹がこれまでに関わってきた仕事のなかから、展覧会、ブティックやショールーム等の展示空間、レストランやディスコやホテル等の、主に私たちの生活環境である都市空間創造の分野に該当するものを紹介するとともに、それらに対する海藤春樹の、基本的な姿勢や、現実的な問題点、そこで何をどのように実現しようとしたか、そしてさらに、そこからどんなことが展望できるか等が語られます。

Part 4 NETWORK SPIME
関係的時空

ここでは、これまで海藤春樹と仕事をしてきた経験を持つ人々が、その仕事のなかで、海藤の光のどこに魅力を感じたか、海藤春樹が仕事に関わることによって何が起きたのか、あるいは起きうるのか等が、彼等自身の言葉によって語られます。

Part 5 WORKS & STAFF LIST
仕事、およびスタッフリスト

ここでは、海藤春樹の近年の主な仕事名と、その仕事を実現させるために働いた多くの人々のなかから、中心的な役割を果たした人々の名前を列記します。

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クレイドールの本、「もうひとつの世界との対話」詳細はこちらから。

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